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2003年7月10日,18日のスタディにおける中島仁氏のレジュメを基に,須賀井がHTMLを作成しました.

統一新羅時代から13世紀中葉まで

鄕札の表記法は“讀字+假字”の構造が主流をなす.

≪三國遺事≫の鄕歌

四句體,八句體,十句體があり,四句體の作品は比較的原始的な形態に近いものと思われる.四句體の鄕歌には"薯童謠","風謠","獻花歌","兜率歌"がある.

"薯童謠"
新羅第26代眞平王(在位579-632)の時.著者: 百濟の薯童(百濟武王の幼名).≪三國遺事≫卷2"武王條"に傳わる.

"彗星歌"
新羅第26代眞平王(在位579-632)の時,僧侶融天師が作った.≪三國遺事≫卷5"融天師彗星歌條"に收錄.

"兜率歌"
760年(景德王19).著者:月明師.≪三國遺事≫卷5に收錄.

"祭亡妹歌"
新羅第35代景德王(在位742-765)の時.著者:月明師."爲亡妹營齋歌"とも.≪三國遺事≫卷5に收錄.

"風謠"
新羅第27代善德女王(在位632-647)の時.著者未詳.四句體鄕歌."良志使錫歌"とも. ≪三國遺事≫卷4"良志使錫條"に傳わる.

"獻花歌"
新羅第33代聖德王(在位702-737)の時.著者: 견우老翁.≪三國遺事≫卷2"水路夫人條"に傳わる.四句體鄕歌.

"慕竹旨郞歌"
700年前後(新羅第20代孝昭王,在位692-702の時).著者: 得烏.八句體鄕歌.≪三國遺事≫卷2"孝昭王代竹旨郞條"に傳わる.

"處容歌"
879年(憲康王5).著者: 處容.≪三國遺事≫卷2"處容郞望海寺"に傳わる.

"願往生歌"
新羅第30代文武王(在位661-681)の時.著者: 廣德.≪三國遺事≫卷5"廣德と嚴莊"に傳わる.十句體鄕歌.

"怨歌"
737年(孝成王1).著者:信忠(僧侶).≪三國遺事≫卷5"信忠掛冠"に傳わる.

"讚耆婆郞歌"
新羅第35代景德王(在位742-765)の時.著者: 忠談師(僧侶).忠談師が花郞耆婆郞を追慕して作った十句體鄕歌.

"安民歌"
764年(景德王23)[中島注:765年/惠恭王1?].著者: 忠談師(僧侶).≪三國遺事≫卷2に收錄.十句體.

"遇賊歌"
新羅第38代元聖王(在位785-798)の時.著者:永才(花郞).≪三國遺事≫卷5"永才遇賊"に傳わる.缺字が多い(4字).

"禱千手觀音歌"
新羅第35代景德王(在位742-765)の時.著者: 希明.≪三國遺事≫卷3"芬皇寺千手大悲"に傳わる.

≪均如傳≫の鄕歌

「大華嚴歸法寺主圓通首座均如傳」(1075年).「(大華嚴首座)圓通兩重大師均如傳」とも言う.均如傳は略称.

"普賢十願歌"
高麗初に均如が作った11首の十句體鄕歌."普賢十種願往歌","願往歌"とも言う.この鄕歌は均如が佛敎の大衆化のため≪華嚴經≫の"普賢十願歌"のひとつひとつに鄕歌1首を作り,11番目はその結論となる詞腦歌(新羅鄕歌の別名)である.高麗第4代光宗年間(在位949-975)に作られたと推定される.慶尙南道陜川海印寺の藏版として傳わる≪均如傳≫に記錄されている.また,≪均如傳≫には均如大師と同時代の人物である崔行歸が"普賢十願歌"11首を飜譯した漢譯詩も收錄されている.

11首の題目

"悼二將歌"

1120年(睿宗15)王が西京(平壤)に行き,八關會が開かれた時,その席に開國功臣金樂と申崇謙の假像を作り參席させたのをみて,睿宗が彼らの功を追悼し作った歌.歌詞は≪平山申氏高麗大師壯節公遺事≫に傳わる.

參考文獻

古代朝鮮語の吏讀資料は以下を參照 吏讀資料は金石文と古文書に傳わっているが,ハングル創製以前の資料を集成した文獻は以下の通り

(1) 均如 (917-973. 新羅末~高麗初の高僧)