これらの年代は推定されたもので學者によっては6世紀中葉と推定する者もある.これらは漢文としてはおかしく變體漢文または俗漢文と呼ばれることもあり,吏讀の立場からは“初期的な吏讀文”と呼ばれる.部分的に朝鮮語の語順で書かれたものもあり,處格助詞に該當する‘中’と語末語尾に該當する‘之’の使用もあらわれる.しかし,その用法は漢文の文法から完全に拔け出したものではない.
(1) 廣開土大王碑(414年)
廣開土大王碑は當時最高の文章家が書いたものと推定される.それにもかかわらず,この碑文は漢文の語順や文法及び表現が非常に不自然である.このような點でこの碑文は高句麗式漢文であり,この漢文には朝鮮語の要素である吏讀的表現を混ぜて書く當時の人々の文章意識があらわれたものと言える.
中國吉林省集安縣通溝(中國吉林省通化專區集安市通構城から東に約4.5kmの太王村大碑街)にある.“好太王碑”とも言う.
碑身: 高さ 5.34m(6.39m) 各面: 幅 1.5m(1.35m-2.0m)
四面石碑,陰刻,文字の大きさ14-15cm
414年廣開土大王の息子長壽王(第20代 在位413-491)が建てた韓國最大の碑石.
第1面11行,第2面10行,第3面14行,第4面9行,各行41字(第1面のみ39字)で總1802字(1775字?)
內容は大きく①序言で高句麗の建國經緯(第1面1行-第1面6行),②廣開土大王が卽位した後の對外征服事業の具體的事實を年代順に記述(第1面7行-第3面8行),③守墓人烟戶を敍述し墓の管理問題(第3面8行-第4面9行)が書いてある.
參照
http://kr.encycl.yahoo.com/final.html?id=18492
http://www.jungto.org/gf/kor/min/minp3.htm
(2) 平壤高句麗城壁刻字A(446年?)
(3) 平壤高句麗城壁刻字B(446年?)
(4) 平壤高句麗城壁刻字C(449年?)
(5) 平壤高句麗城壁刻字D(449年?)
高句麗の城壁刻書には次の5種.
(a) 丙戌十二月中 漢城下 後卩小兄文達節 自此西北行涉之 [卩=절]卩は部の略劃字.
(b) 己丑年五月二十一日 自此下向東十二里 物省(苟)小兄 俳須百頭□ [苟=구]
(c) 己丑年五月二十八日始役 西向十一里 小兄相夫若侔利造作 [侔=모]
(d) 掛婁蓋切小兄加群 自此東廻上 □里四尺治
(e) 乙亥年八月 全部小大使者於九婁 治城六百八十四間
(a)(b)は≪朝鮮金石總覽≫に載っている.拓本も付錄にあり.
(a)は當時の平安南道廳所藏,(b)はソウル居住の吳世昌氏所藏.(a)446年(推定).(b)449年(推定).
(c)は劉燕庭が編纂した≪海東金石苑≫に載っている.449年(推定).
(d)1964年平壤で發見.平原王8年(566年)のものと推定される.城の修理記錄.
(e)1957年平安北道泰川郡龍山里籠吾山城で發見.平原王9年(567年)のものと推定される.城の修理記錄.
(6) 瑞鳳塚銀合杆銘(451年?)
この銘文は合(盒?)の蓋の內側と合の底の2ヶ所に刻まれている.
(a) 蓋の內側: 延壽元年太年在卯 三月中太王敬造合杆用三斤六兩
(b) 合の底: 延壽元年太年在辛 三月□太王敬造合杆 三斤
(7) 中原高句麗碑(495年?)
百濟の吏讀文は未發見.次の資料が吏讀文だという見解がある.
(1)(2)(5)は“和白會議”を通じて地方の行政的な措置を處理した內容を記した行政記錄.
(3)は書石がある溪谷を王が通り過ぎた事實を記錄.
(4)は(3)の王の死後,彼を追慕して記した記錄.
(6)は大邱市內で發見.この地域の防護用の塢を築造した內容を記錄.
(7)(8)は慶州の南山と明活山に山城を作った記錄.築城の責任の所在を明らかにするための記錄.
(9)は二人の人が經典を熱心に勉强し,國家に忠誠することを誓った內容を,1尺ばかりの小さい石に刻んだもの.
吏讀文の最後に“也, 矣”のような終結詞よりも“之”を書くことが多い.
→ 高句麗の用法が新羅に傳わり發達を經た結果と考えられる(南豊鉉2000:33).
これらは碑銘,鐘銘などの金石文(6)と古文書に記錄されたもの.
內容
佛像造成記 (1), (2), (10), (20)
石塔造成記 (11), (19)
幢竿(7)石柱造成記 (15)
銅鐘造成記 (4), (5), (13), (16), (17), (21)
禁口(8)造成記 (19)
寫經造成記 (6)
多くの佛事を造成した高僧の事跡を帳簿式に記錄した頌德碑 (14)
行政文書(9) (3), (7), (8), (12)
私的備忘錄 (9)
漢字だけを朝鮮語の語順に配列した初期的吏讀文(10): (1), (3), (4), (14), (15)
新羅統一以後,新しく發達した吐が使用された吏讀文: 上記以外のもの
吏讀の吐は口訣の影響を受けて發達したものと考えられるが,新羅時代にも助詞や語尾のような朝鮮語の文法形態と末音添記の表記に使われたものが確認できる.
吐には三國時代から使われてきた漢文の虛辭字も使われた.しかし,純粹な朝鮮語の文法形態を表記するための借字の登場によって,はじめて當の意味の吐表記が發達したと言える.現在このような性格の吐として最も古いものは(2)の甘山寺阿彌陀佛像造成記(720年)に使われた“哉/”字である.この借字は(6)華嚴經寫經造成記(755年)にも使われたが,後に鄕札の“制”字や吏讀と口訣の‘齊’字に續くものである.
慶尙南道 昌寧邑 觀龍寺の石佛座臺(776年)に彫られた佛像の造成記(吐が使われた吏讀文)
江原道 東海市の三和寺 鐵佛造成記(9世紀?)(讀字を朝鮮語の語順に配列した吏讀文)
木簡に記錄された吏讀文
靈岩郡 西鳩林里で發見された埋香碑 [鳩=구]
“*”は吏讀文が少數しかあらわれないもの.
“**”は“*”の中で1次資料と原資料がなくなり,後代に轉寫した2次資料が傳わっているもの.
この時代に入って吏讀文は行政文書としての表現樣式が確立したものと思われる.初期には新羅時代に使われていた樣式がそのまま繼承されていたが,成宗6年(987年)に公文書の樣式を祥定するようにしたことによって,吏讀文も一定の文書規式を持つようになったと考えられる.(南豊鉉2000:39)
秋八月乙卯 命李夢游 祥定中外奏狀及行移公文式(高麗史 卷3, 10)
高麗時代に吏讀の表現樣式が緻密になった.
新羅時代最長の吏讀の吐は竅興寺鐘銘(856年)の“願爲內等隱/願”
高麗時代初期の鳴鳳寺慈寂禪師凌雲塔碑陰銘(941年)では“成造爲內臥乎亦在之/成造누온여겨다”
高麗前期の吏讀の表現は比較的自由で口語に根據した創意的なものであったのに對し,文書樣式が一定化するにつれ表現も一定化し高麗後期には現實の言語と距離のある古語が使われた.部分的には古語的な表現が新しく改新された表現にかわって行ったが,死語化した高麗時代の朝鮮語が朝鮮後期までそのまま維持する場合が多い.
このような典籍類は高麗時代にも存在したものと考えられるが傳わっていない.
(1) 大明律直解(1395年)
明初に制定した明の法律を吏讀文に翻譯したもの.總30卷,600餘頁.
(2) 養蠶經驗撮要(1415年)
太宗の時,元の≪農桑輯要≫から養蠶に關係したものを拔粹し吏讀に翻譯したもの.原文漢文があり,これを吏讀に翻譯した.
(3) 新刊農書輯要(1517年)
元の≪農桑輯要≫から農事に關する內容を朝鮮の實情に合うように拔粹し吏讀文に翻譯したもの.本來は≪養蠶經驗撮要≫と同じく太宗の時翻譯されたものと推定されるが,1517年に安東で再び刊行したものを筆寫したものが傳わる.從って,その吏讀は15世紀以前のものと考えられる.
(4) 牛馬羊猪染疫病治療法(1541年)
家畜の染疫病の治療法を集めて刊行したもの.原文である漢文があり,これをまず吏讀文に翻譯し,續けてハングルに翻譯したもの.飜譯が2つあるという點で特異な資料と言える.
現在(1992年)岡田信利氏所藏本が原刊本と推定されている.活字本でハングルには傍點もあるという(13).
異本
功臣錄券
功臣錄券の吏讀は各文書でほぼ一致するが,中には時代的變化を見せるものもある.
(1) 李和開國功臣錄券(1392年)
開國功臣錄券(14)の中で原型どおり殘っている唯一の物で國寶(第250號)に指定されている.吏讀の內容が豊富で,朝鮮初期の吏讀を硏究するのに重要な資料になる.轉寫されて傳わっているものではあるが,ほぼ原型を維持しているものとして李稷開國功臣錄券[稷=직]もある.李和開國功臣錄券の錄券と文字に若干の差異があるが,內容や吏讀には差異がないために上には列擧してない.
(3) 張寬開國原從功臣錄券(1395年)
開國功臣より一等級下の功臣にあたえたもの.このような開國原從功臣錄券には他に韓奴介,文係宗,朴淳,陳忠貴,鄭津,李和尙,李原吉,金天理,金懷鍊,龍天奇のものが傳わる.この中には1次資料と2次資料がある.內容上若干の差異があるが吏讀は一致する.
(4) 沈之伯國原從功臣錄券(1397年)
木活字で刷ったもの.木活字錄券には前の韓奴介のものもあるが,吏讀の內容に差異はない.
(6) 張哲定社功臣錄券(1398年)
第1次王子の亂で功のあった臣下たちを冊封したもの.これは轉寫された2次資料であるが,定社功臣錄券として唯一殘っているものである.
(8) 馬天牧佐命功臣錄券(1401年)
第2次王子の亂で功のあった臣下たちを冊封したもの.
(14) 李衡佐命原從功臣錄券(1411年)
太宗が潛邸時[潛=잠]から補佐した臣下たちを原從功臣として冊封したもの.
官で發給した文書
(11) 鄭悛告身Ⅰ・Ⅱ(1403, 1404年)[悛=전]
吏曺が下した辭令狀で吏讀“爲等以/로”が使われただけ.高麗時代の慣習が續いていたものであると思われる.時代がもう少し下ると告身も吏讀がない漢文にかわる.
(15) 崔澄戶籍(1417年)[澄=징]/(21) 廣川董氏戶籍(1439年)
族譜に載せられた2次資料.戶口の成立過程を見せる關文部分が吏讀文.この他の戶籍文書には吏讀がめったに使われない.
(7) 趙溫賜牌文書(1399年)/(10) 曺恰賜牌文書(1401年)[恰=흡]/(19) 李澄石賜牌文書(1433年)
(7)は定社功臣である趙溫に功臣錄券に付隨して田地を授與した賜牌.(10)は第2次王子の亂で太宗を護衛した功勞で曺恰に田地と奴婢を下賜した賜牌.(19)は邊方を侵略していた野人たちを平定した功勞で奴婢を下賜したもの.
(16) 李藝鄕吏免役功碑(1421年)
蔚山李氏族譜(1661年刊)に載っているもの日本と琉球國に往來していて捕まった朝鮮人たちを連れてきて,對馬島征討時には副帥として參戰し功のある李藝に彼の子孫まで免役させた功牌.前の賜牌文書は內容が單純で吏讀も多樣ではないと言えるが,この李藝の功牌は多彩な內容が盛り込まれている.
(13) 長城監務關字(1407年)
長城にある白巖寺の管理權を定めた關文.高麗時代の白巖寺貼文などと共に≪朝鮮寺刹史料≫に載せられて傳わる2次資料で,高麗時代の貼文と共に重要な吏讀資料として知られている.
民間で使用した私文書
--分財記--
(2) 太祖賜給芳雨土地文書(1392年)
太祖が長子である芳雨に田畓[畓=답]を讓り渡した分財記.1次資料.
(9) 太祖賜給[方尓]致家垈文書(1401年)[方尓=方へんに尓=며]
太祖がその庶女[方尓]致(淑愼翁主[愼=신])に家垈を賜給した分財記.太祖の親筆として知られる1次資料.肅宗時に編纂された≪列聖御製≫の初頁にも載せられる.
(5) 南[門言]遺書(1398年以前)[門言=門構えの中に'言']
子孫に奴婢,田畓,家舍,寶貨などを讓渡した分財記.原本を模寫した2次資料ではあるが,この系統の文書としては最も早いもの.
(12) 張戩妻辛氏同生和解文記(1404年)[戩=전]
父母の死後奴婢を3男妹が分けた和解文記.私家に傳わる原本の分財記としては最も古く,吏讀の表現も多樣な方.
(18) 金務許興文記(1429年)
典醫少監の金務が225口の奴婢を4人の息子と2人の壻そして親外の孫に分け與えた分財記.300行を超える長文の分財記であり15世紀初期の社會像を理解するのに重要な資料.吏讀はその序文に使われ,多樣な方.
(22) 權明利許興文記(1443年)
世宗年間に作成された奴婢分財記.1次資料.分財記全般に吏讀が使用され,この時代の吏讀の多樣な姿を見ることができる.
--所志(15)--
(17) 張戩妻辛氏所志(1427年)
(16) 李藝鄕吏免役功碑(1421年)で讓られた奴婢が逃亡するや,彼を推尋するため慶尙道觀察使に提出した書狀.
(20) 張安良所志Ⅰ・Ⅱ(1435年)
逃亡した婢を推尋するために全羅道觀察使に出した書狀.
これらの資料に對する緻密な硏究はまだなされていないが,全般的に吏讀の保守性が强く,後代の資料であっても高麗時代や朝鮮時代初期の表現をそのまま維持している傾向が强い.
一方15世紀以降,吏讀が使用される領域は縮小して行く.佛家の造成記,官文書(朝謝帖,告身,差帖等)など以前は吏讀文で書かれていたものも漢文で書かれるようになった.
16世紀には吏讀文資料は多くなる.しかし,吏讀文の表現は漸次漢文化する傾向を見せる.すなわち,吏讀文の內容部分は漢文で書かれ,吏讀は主に吐に使われ,吐をふったような文體にかわって行く.社會的には吏讀を使用する階層が新しく生じる.兩班は漢文,中人は吏讀文,兒女子や庶民は諺文を使うようになって行く.女人の場合,ハングルで文書を書く場合が多いが,これは吏讀文の漢字音をハングルに轉寫し書いただけで,その表現自體は吏讀文である.16世紀以降,吏讀文の量は增加していくが,創意的な吏讀表現は減り,語學的に價値がある吏讀の用例はそれほど多樣ではない.
17世紀以降,この傾向がさらに甚だしく,全國的に多くの資料が傳わるがほぼ套式化している.
(1) 廣開土王(374-413,在391-412,高句麗19代).姓は高,名は談德・平安・安,諡號(贈り名)は國岡上廣開土境平安好太王.略して,廣開土王・好太王等と呼ばれる.一般的に高句麗は朝鮮の一王國と認識されているが,その領土から滿州の古代王國に分類される場合もある.好太王の時代,朝鮮半島に南侵し,領土を擴大した.その事は,諡號の一部“廣開土”(領土を廣げた)を見ての通り.又,鴨綠江岸(現・中國吉林省輯安縣)に立つ“好太王碑”の碑文から,當時,朝鮮半島で百濟の同盟國だった倭國の軍が,南侵してきた高句麗軍と交戰した事が明らかになっている.
(2) 平壤で發見.B,C,Dも同樣.
(3) 1926年慶州の瑞鳳塚で發見.
(4) 忠淸北道 中原郡 (現 忠州市)で發見.
(5) 日本に傳わったもので百濟のものと推定されるが吏讀文と見るには疑問が殘る.(南豊鉉2000:32)
(6) 金文と石文,つまり,鼎(かなえ)・鐘・石碑・佛像等,金屬・岩石・木版(つまり紙以外の材料)等に刻された文字・文章・銘文の總稱.文字が陰刻されたものは“款”,陽刻されたものは“識”と呼ばれる.又,彫刻に依る事が多い爲,獨特な字體(金石文)を生んだ.
(7) 寺刹で祈禱や法會などの儀式がある時,幢(佛や菩薩の威信と功德をあわわす莊嚴佛具)をかけておく柱.
(8) 器物のふちを保護する靑銅の金屬裝飾.
(9) (3)は築城記錄,(7)は村落の帳籍,(8)は出納臺帳,(12)は貯水池の修理記錄.
(10) 上の資料名末尾に“*””を記した.
(11) “半子”とは金屬で作った鼓の一種.昔軍隊や寺刹で使用した.괭과리を大きくしたような形.
(12) “准戶口”とは官廳で個人の戶籍事項證明する文書.今日の戶籍謄本にあたる.個人が戶籍に載せられる內容を作成して役所に提出する戶口單子に對比される.この文書は訴訟や,新しい戶籍を作る時,科擧に應試する時,職業を確認する時,逃げた奴婢を捕まえてくる時などに申請して發給を受けた.
(13)この本の異本と吏讀に對する硏究は以下を參照.
안병희(1977), 양잠경험촬요와 우역방의 이두의 연구, ≪동양학≫7.
안병희先生の授業を聞いた人のメモによると題目は≪牛羊猪染疫病治療法≫となっており,傍點はない.安秉禧先生の授業を聞いた時のメモと考えられるので,こちらのメモが正しいかと思われる.
(14)功臣錄券: 高麗・朝鮮時代に功臣に冊封された兩班官僚の褒賞內容を記錄した文書.
(15)高麗・朝鮮時代に士庶・下吏・賤民などが官に提出した請願書及び陳情書.